AIが急速に発展する現代において、熟練技術者の経験や勘といった「暗黙知」を「形式知」に変換することは、企業の競争力維持や技術継承において極めて重要だ。
特に、不確実性の高い領域に挑む新規事業部門や専門性が問われる研究開発部門においては、業務の属人化は効率低下に留まらず、イノベーションの芽を摘む致命的なリスクとなりうる。
本記事では、暗黙知と形式知の違いを整理したうえで、SECIモデルを軸に知識を変換・循環させるための具体的アプローチやコツなどについて解説したい。
目次
暗黙知とは?
暗黙知とは、言葉や文章で明確に説明することが難しい知識、あるいは言語化や文書化が困難な知識を指す概念である。ハンガリー出身の哲学者マイケル・ポランニーが著書『The Tacit Dimension』の中で提唱し、「我々は語り得る以上のことを知っている」という言葉でその本質を表現した。
これは、人間が持つ知識の多くが、言葉で説明できる形式的な情報だけでなく、経験や感覚、身体的な動作を通じて身につく知識に支えられていることを示している。
例えば、熟練した職人が材料の微妙な変化を感触で判断する技術や、ベテラン営業が顧客の反応から商談の進め方を瞬時に変える判断力などは、長年の経験によって培われるものであり、手順書やマニュアルだけでは完全に再現できない。
このような知識は個人の中に蓄積されるため、組織にとっては価値の高い資産である一方、共有や継承が難しいという課題を抱えている。したがって、暗黙知をいかに把握し、他者と共有可能な形へと変換していくかが、組織の成長や技術継承における重要なテーマとなっている。
対義語の「形式知」との違い
形式知とは、言語や数値、図表などで明確に表現でき、他者と共有・伝達が可能な知識を指す。マニュアル、設計図、業務手順書、データベースに蓄積された情報などが代表例であり、誰が見ても同じ内容を理解できる点が特徴だ。
形式知は記録や検索が容易であるため、ナレッジマネジメントの対象として扱いやすく、組織全体での共有や再利用、標準化を進めるうえで重要な役割を果たす。これに対し、暗黙知は長年の経験や試行錯誤の積み重ねによって身につく知識であり、感覚や直感、身体的な動作に深く根ざしている。
形式知は共有しやすく組織に蓄積しやすい知識であるのに対し、暗黙知は個人に依存しやすく伝達が難しい知識である点が大きな違いだ。
暗黙知を放置するリスクと起こりうる問題
組織として暗黙知を放置することは、業務の属人化や安全性の低下、高度な技術の流失などさまざまなリスクを引き起こす恐れがある。
業務の属人化とブラックボックス化
暗黙知を放置したまま業務を進めると、特定の担当者だけが仕事の進め方や判断基準を把握している状態が生まれ、業務の属人化が進行する。
属人化が進むと、同じ業務であっても担当者ごとに手順や判断が異なり、組織としての標準化が進まなくなる。さらに、ノウハウが個人の中に閉じたままになるため、チームや部署を越えた共有が行われず、知識が独占された状態となる。
このような状況では、他のメンバーが業務内容を十分に理解できず、担当者に依存した体制が固定化されてしまう。結果として、担当者が異動や退職などで現場を離れた場合、業務の全体像や判断基準が誰にも分からなくなり、作業が止まる、あるいは引き継ぎに長い時間を要する事態に陥る。
こうして、長年続いてきた業務が突然ブラックボックス化し、組織としての継続性や柔軟な人員配置が難しくなる点が、暗黙知を放置する最大のリスクだといえる。
手戻りの発生とサンクコストの増大
また、暗黙知が共有されないまま業務が進行すると、重要な判断や設計の前提条件が組織内で共有されず、後工程で重大な問題が発覚する可能性が高まる。
特に新規事業や研究開発の現場では、過去の試行錯誤の結果や特定条件下でしか成立しない技術的制約が、経験者の頭の中に暗黙知として蓄積されていることが多い。こうした知識が文書化されていない場合、別の担当者が同じ失敗を繰り返したり、実現不可能な仕様を前提に開発を進めてしまったりする事態が起こる。
結果として、試作や設計をやり直す大規模な手戻りが発生し、それまでに投じた開発費や人件費、設備投資などが回収できないサンクコストとなる。さらに、既に多額の投資を行っているという心理的要因から、撤退や方針転換の判断が遅れ、事業全体が泥沼化するリスクも高まる点も問題だといえる。
品質や安全性の低下
そして、品質や安全性の低下につながる恐れもある。製造現場や研究開発の工程では、数値化された手順だけでは再現できない微妙な感覚が重要な役割を果たしている。例えば、機器のわずかな振動の変化や、薬品を混ぜる速度や順序といった細かな判断は、長年の経験を通じて身につくものであり、製品の歩留まりや安全性に直結している場合が多い。
こうした暗黙知が文書化されず、担当者の感覚に依存したまま引き継がれないと、微細な異常の兆候を見逃しやすくなり、設備の故障や品質不良、さらには重大な事故につながる可能性が高まる。また、作業者ごとに判断基準が異なる状態では、製品の均質性が保てず、品質のばらつきや不良率の増加を招く。
結果として、顧客からの信頼低下やブランド価値の毀損につながるなど、企業全体に大きな影響を及ぼす可能性も見過ごせない。
高度な技術の流失
最後に、暗黙知が放置されると、熟練者の退職や異動、病気などをきっかけに高度な技術そのものが組織から流失してしまう危険がある。
長年の経験によって培われた判断力や作業の勘は、マニュアルや数値だけでは再現できない場合が多く、本人が現場を離れた瞬間に再現不能な技術となってしまう。特に、担い手不足が深刻化している農業や林業、製造業の現場では、こうした知識の断絶が生産性の低下や事業継続の困難さにつながる。
さらに、伝統工芸や地域産業のように技術そのものが価値の源泉となっている分野では、熟練者の引退がそのまま製品品質の低下やブランド力の喪失を招き、産業自体の存続が危ぶまれる事態にも発展する。
技術を担う人材の高齢化が進む現代において、暗黙知を組織全体で共有し、次世代へ引き継ぐ仕組みを整えなければ、長年培ってきた競争力を失ってしまうだろう。
なぜ暗黙知が生まれてしまうのか
暗黙知が生まれる背景には、単なる個人の経験の蓄積だけでなく、人間の知覚構造や組織内の人間関係といった多層的な要因が複雑に関係している。
人間が身につける技能や判断力の多くは身体的な感覚に基づいており、微妙な力加減やタイミング、状況に応じた直感的な意思決定などは、論理的な言語体系に完全に置き換えることが難しい。また、これらを言葉や数値で定義しようとすると、本質的な部分が抜け落ちてしまうため、結果として本人の中にしか存在しない知識として蓄積されるのである。
さらに、組織内のコミュニケーション環境も暗黙知の生成に影響する。業務が多忙で、結果報告や指示伝達に終始する職場では、思考の過程や工夫が共有されにくく、知識が個人に閉じ込められやすい。
他にも、個人の専門性やノウハウが評価や昇進に直結する文化では、知識を独占する動機が働き、暗黙知が組織内で固定化されやすくしてしまうのだ。このように、人間の認知特性と組織構造の双方が重なり合うことで、暗黙知は自然に生まれ、蓄積されてしまう。
暗黙知を形式知に変えるメリット
暗黙知を形式知に変えると、属人化の解消や教育コストの削減、事業アイデアの創出といったメリットが得られる。
属人化の解消とリスク分散
暗黙知を形式知へ変換する1つ目のメリットは、業務の属人化を解消し、組織全体のリスクを分散できる点である。熟練者の経験や判断基準をマニュアルや手順書、標準作業ガイドなどの形で整理し共有すれば、特定の個人だけが担っていた専門的な業務や意思決定を、他のメンバーでも再現できるようになる。
これにより、担当者が休職や退職で不在となった場合でも、業務が停滞したり品質が大きく低下したりするリスクを抑えられる。また、業務手順が明確になることで、複数人での相互チェックや改善提案も行いやすくなり、組織としての安定性が高まる。
結果として、個人の能力に依存した不安定な体制から、誰が担当しても一定の成果を出せる仕組みへと転換できるため、事業継続性の向上につながる。
教育コストの削減と成長速度の加速
2つ目のメリットとして、教育コストの削減と人材の成長速度の向上が期待できる。
熟練者の経験や判断基準が言語化されていない状態では、新人はベテランに付き添って学ぶ徒弟制度のような形に依存せざるを得ず、習熟の速度は指導者の教え方や相性に大きく左右されてしまう。また、指導役の従業員は本来の業務時間を割いて教育にあたる必要があり、組織全体の生産性を低下させる要因にもなる。
これに対し、手順書や動画教材、ナレッジベースなどの形で知識を形式知化すれば、学習者は標準化された情報に時間や場所を問わずアクセスできるようになる。これにより、個人差の少ない効率的な教育が可能となり、短期間で一定水準の技能を身につけられる。
結果として、教育にかかる人的コストや時間を抑えつつ、組織全体のスキルレベルを底上げ可能だ。
新たな事業アイデアの創出
3つ目のメリットとして、暗黙知を形式知へと変換する過程は、単なる情報の整理にとどまらず、新たな事業アイデアを生み出す源泉となる。個人の経験や勘として蓄積されていた知識を言語化し、データや手順、事例として共有可能な形にすることで、異なる専門分野や部署の知識同士が結びつきやすくなる。
その結果、これまで接点のなかった技術やノウハウが組み合わさり、従来の枠組みを超えた発想が生まれる土壌が整う。さらに、形式知として整理された情報は客観的に分析できるため、過去の成功要因や失敗の原因を構造的に把握し、別の市場や用途へ応用することも可能となる。
こうした知識の再編集や組み合わせを繰り返すことで、新しい製品やサービスの着想が生まれ、組織全体のイノベーション創出力を高める効果も期待できる。
暗黙知を形式知にするナレッジマネジメントのフレームワーク「SECIモデル」
SECIモデルは、野中郁次郎氏らが提唱した、個人がもつ暗黙知を形式知化して組織全体で共有し、新たな知識を創造するナレッジマネジメントのフレームワークだ。
このフレームワークは、「共同化(Socialization)」「表出化(Externalization)」「連結化(Combination)」「内面化(Internalization)」の4つのプロセスから構成される。
共同化(Socialization)
SECIモデルの出発点となる共同化は、個人がもつ暗黙知を、言語化せずに他者へ伝えていくプロセスである。この段階では、マニュアルや資料による学習ではなく、同じ空間での作業や体験の共有が重視される。
例えば、熟練者の作業を間近で観察したり、現場で同じ工程を繰り返したりすることで、微妙な力加減やタイミング、判断の基準といった言葉にしにくい感覚を身体的に理解していく。営業の現場であれば、顧客との会話の間合いや表情の読み取り方なども、同行を通じて自然に身についていく。
このように、共同化は人と人との直接的な関わりの中で暗黙知を共有し、知識伝達の基盤を築く段階だ。特に技能伝承や現場教育においては、このプロセスが知識循環の起点となる場合がある。
表出化(Externalization)
表出化は、個人の経験や勘として内面に蓄積されている暗黙知を、言葉や図解、比喩、数式などを用いて形式知へと変換するプロセスである。この段階の目的は、本人の中にしか存在しなかった知識を、他者が理解し議論できる状態に引き上げることにある。
例えば、熟練した営業担当者が感覚的に行っていた顧客との距離の取り方や提案の順序を、トークスクリプトや心理的ステップとして整理すれば、チーム全体で共有可能な知識となる。製造現場であれば、作業者の勘に頼っていた工程のコツを、手順書やチェックリストとしてまとめることで再現性が高まる。
このように、表出化は暗黙知を客観的な形に翻訳し、組織の知識資産として蓄積するための段階であり、対話や議論を通じて知識を明確化していく役割を担う。
連結化(Combination)
連結化は、言葉や図解として整理された形式知を、他の形式知やデータと結び付けて、より体系的で実用性の高い知識へと再構築するプロセスである。この段階では、個別に存在していたマニュアル、報告書、市場調査データ、技術資料などを整理し、相互の関係性を明確にしながら統合していくことが重要だ。
例えば、営業部門の顧客データと製品開発部門の技術情報を組み合わせることで、新しい商品企画の指針を導き出すといった形で活用される。単に情報を集めるだけではなく、ITツールやデータベースを用いて分類や編集、加工を行い、誰もが検索・活用できる形に整備することが求められる。
こうして複数の形式知を結び付けることで、組織全体で共有可能なルールや理論、業務プロセスとして機能する知識体系が形成され、実務に直結する価値を生み出す。
内面化(Internalization)
内面化とは、文書化された手順書やマニュアル、データといった形式知を理解し、それを実際の行動や経験に落とし込んで自分のものとして体得するプロセスである。単に知識を読んで理解するだけではなく、現場で試行錯誤を重ねながら実践することで、形式知が個人の感覚や判断基準として定着していく段階である。
例えば、作業手順書に記された操作方法を繰り返し実践することで、状況に応じた微調整や判断が自然にできるようになり、知識が身体感覚として蓄積されていく。この段階では、学んだ内容と自身の経験が結び付くことで、新たな暗黙知が生まれる。
こうして形成された暗黙知は、組織内で再び共有や言語化の対象となり、知識創造の循環を生み出す基盤となる。内面化は、形式知を実践力へ転換し、組織全体の知識レベルを底上げする段階だといえる。
ナレッジ共有を成功させるコツ
ナレッジ共有を成功させるには、さきほどのSECIモデルのフレームワークだけでなく、以下の2つを整えることが重要だ。
完璧主義を捨てる
ナレッジ共有を進めるうえで1つ目に重要なのが、完璧主義を捨てる姿勢である。多くの現場では、マニュアルや資料を作成する際に、体裁の整備や情報の網羅性にこだわり過ぎてしまい、公開までに時間がかかるケースが少なくない。
しかし、ビジネス環境の変化が速い現代では、情報の鮮度や共有スピードが成果を左右する重要な要素となる。特に新規事業や研究開発の分野では、仮説や実験結果を迅速に共有できるかどうかが意思決定の質を大きく左右する。
完成度の高い資料を待つよりも、箇条書きのメモや簡易な図解、手書きのスケッチであっても、まずは共有して議論の材料にする方が価値は高い。共有された情報は、その後の議論や実務の中で自然と補足や修正が加えられ、徐々に精度が高まっていく。
完璧さを求めて共有を遅らせるよりも、未完成でも公開して改善を重ねる文化を築くことが、ナレッジ活用を活性化させる鍵となる。
検索性と導線を整える
そして、もうひとつのナレッジ共有を成功させるために、情報の検索性と導線を整えることが不可欠である。どれほど価値の高い知識であっても、必要なタイミングで見つけられなければ実質的に存在しないのと同じである。
単に資料やノウハウを蓄積するだけでは不十分であり、誰もが短時間で目的の情報へ到達できる仕組みを整えることが重要だ。具体的には、社内Wikiやナレッジ共有ツールなどの専用システムを導入し、キーワード検索の精度を高めることが基本となる。
また、情報の登録ルールを統一し、タグ付けやカテゴリ分類の基準を明確にすることで、異なる部署や担当者が作成した資料でも横断的に検索できる状態を作り出せる。さらに、トップページや業務フローから関連情報へ直接アクセスできる導線を設けることで、検索に頼らずとも自然に知識へ触れられる環境が整う。
こうしたアクセシビリティの向上が、ナレッジの活用度を高め、組織全体の生産性向上につながるのだ。
暗黙知を形式知に変えて成功を果たした企業事例
最後に、暗黙知を形式知化して成功を果たした企業事例を複数紹介したい。
花王
花王株式会社は、東京都中央区に本社を置く日本の大手日用品・化学メーカーであり、化粧品、洗剤、トイレタリー製品などを世界各国で展開している。同社は早くから現場で培われた暗黙知を組織全体で共有・活用する仕組みを整えてきた企業として知られる。
その代表例が、1980年代から運用されている独自の顧客情報システム「エコーシステム」である。この仕組みでは、消費者相談窓口に寄せられた意見や要望を単なる記録にとどめず、開発、製造、品質管理、マーケティングなど各部門が即座に閲覧・分析できる形で蓄積し、製品改良や新商品開発に反映している。
また、企業理念である「花王ウェイ」に基づき、従業員が現場で得た知見や工夫を共有する文化を根付かせており、日常業務の中で知識の循環が促進されている。こうした継続的な知の共有と活用が、同社の高い市場シェアと安定した業績を支える基盤となっている。
トヨタ自動車
トヨタ自動車株式会社は、愛知県豊田市に本社を置く世界最大級の自動車メーカーであり、乗用車や商用車、電動車両などをグローバルに展開している。同社は、製造現場で培われた暗黙知を組織全体で共有できる形式知へと転換する仕組みを長年にわたり構築してきた企業として知られる。
その中心にあるのが「トヨタ生産方式(TPS)」と「カイゼン」の思想である。現場で得られた作業のコツや判断基準を標準作業手順書やチェックリストとして整理し、誰もが同じ品質で作業できるように体系化している。
また、問題発生時には原因を追究し、対策を標準に反映させることで知識を組織の共有資産として蓄積していく仕組みを整備している。このような暗黙知の形式知化と継続的な改善の循環が、高い生産性と品質を支える基盤となっている。
まずは小さな情報の共有から始める
知の探索と深化が求められる新規事業や研究開発の現場において、暗黙知を形式知へと変換するプロセスは非常に重要だ。それは、単なる情報のアーカイブ化ではなく、個人の内側に閉ざされていた創造性の種を組織全体の知性に結びつけるためのアクションである。
ナレッジマネジメントの成功は、優れたマニュアルを完備することではない。形式知を土台として個々人が新たな暗黙知を獲得し続ける「知の螺旋」を止めないことにあるのだ。